演奏旅行記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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GGサロンコンサート記(2002年10月26日) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10月26日、東京は小雨模様で少し肌寒かった。が、予想していた以上の方々がサロンにお運び下さり、温かな雰囲気の中で演奏をすることができた。 最近、どこの会場でもどういうわけか空気が温かい。ステージに出て行った瞬間にそう感じるのだ。お客様が作って下さるそうした空気の中で、今度は私が演奏でこちらの「気」を投げかける。コンサートって、本当に客席と演奏者のコミュニケイションの場だな、と感じる。 終演後恒例の打ち上げ(批評会?)にも沢山の方が参加して下さり、なつかしく再会した方ばかりでなく、新しい出会いもあった。福田(進一)先生が出席して下さったこともあり、皆さんと楽しい一時を過ごすことができた。 翌日、同じ会場でパベル・シュタイドルのマスタークラスが行われた。彼が強調していたことは、呼吸、左手で音楽を作ること、についてであった。実際に歌ってみることで、呼吸もルバートも間の取り方も改善できる。やはり「歌う」ということは大切なことで、歌えないということは音楽を勉強する者にとって大きな問題なのである。私もプライベートで演奏を聞いてもらったのだが、やはり歌わされた。いつも歌っていれば、歌えるようになるのだ。だから、歌の練習をしよう、なんて思わないで自分の練習でも生徒のレッスンででも歌っていればいいんだ、と思い札幌に帰ってからは積極的に声を出すようにしている。パベルは歌が上手なんだもの。彼は歌手が歌うようにお腹に沢山空気を入れてギターを演奏していた。だから、開放弦の音もお腹の筋肉が震えているのでヴィブラートがかかっているのだ!すごかったなあ。彼の場合、演奏中は体中が音楽と一体となっているということなんだ。自分はもっと原点に帰っ て勉強する必要がある、ということがわかった。左手で音楽をつくる、とは左手によるアーティキュレーションやヴィブラートをもっと大事に考える、ということ。右手よりも左手がその大きな役割を果たすという、考えだ。デュナーミクすらも彼は左手を使うと話していた。また来日して欲しいと願って止まない。 |
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大阪リサイタル記(2002年7月20日) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7月20日午後2時、伊丹空港で飛行機から降りると、まるで温泉宿の脱衣場を思わせる熱気に襲われた。「あ、あつい!でも、意外と心地良い。」この時の気温は32度くらい。大阪の暑さは、地元の人が言う不快感よりも、冷え性の私の体をぽっかぽっかと温かく包み込みこんでくれる心地よさの方が軍配をあげた。それに、バテるというよりも、逆にヤル気を呼び起こしてくれた。 空港に主催者である猪居信之先生が迎えに来て下さっており、昨年の台湾での講習会以来、1年ぶりに再会を果たした。先生は主催者らしくスーツを着込んでおり、この暑さの中では気の毒であった。新大阪行きのバスに乗り、まずホテルへ直行した。立派なホテルである。演奏会の準備を全てやって頂き、その上このような立派なホテルまで用意して下さり、猪居先生への感謝の気持が一層沸き起こってきた。 荷物の整理を終えるとすぐ、コンサート会場である「さんくすホール」へ向かった。会場では先生のお弟子さんが主催するギターとリュートのコンサートが行われていた。落ち着いた雰囲気のホールである。入った瞬間に、弾き易そうだな、と感じた。 その日お世話になる猪居一家に御挨拶をした。まず、先生の奥様。噂に違わず美しい方である。それに御子息のけん君。昨年、台湾で一緒に数日間を過ごし、同じ部屋で寝た仲である。将来が楽しみな抜群のテクニックを持つ中学3年生。そして、お嬢さんのあみちゃん。これまた小学生低学年とは思えない達しゃな演奏振りらしい。ジュニアコンクール荒らしの腕前を持っている。この日は花束係だそうだ。ご家族総出で私の演奏会の準備をして下さったことを知ると、もう頭が上がらない気持。 開演になって舞台に上がってみると会場一杯にお客さんがいる。初めての土地なのにその雰囲気は温かい。幸せな気持だった。 打ち上げは30人くらいの方が参加して下さっていた。私の友人、知人達は皆帰ってしまい、お初にお目にかかる方ばかりなのに、なんだか大変盛り上がった。皆さん親切に温かく接して下さって、時間が過ぎるのを忘れて楽しんだ。 関西の人間の「あつさ」を感じた。冷めていない。反応がはっきりしている。陽気で話しも弾む。人間を見て大阪が大好きになってしまった。 翌日は猪居先生を引っ張り回して、たこやき食べに歩き回ったり、観覧車に乗ったりとすっかり観光して楽しませて頂いた上、さらに弾き語りまでさせてしまった。夜はグラナダのマスターの歌に合わせて私がマラカスを担当、日本のギター史とも言えるようなお話も聞けて有意義だった。 演奏家としての第一歩となる大変貴重な経験をさせて頂き、コンサートを聴いて下さった方やお世話になった方々皆様に、心からお礼申し上げます!! |
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斜里町コンサート記(2002年4月20日) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オホーツク海に抱かれた町、斜里町で私の演奏会が開かれた。 これは町の「げいぶん支援事業」として行われたものだ。札幌から車で所要時間7時間とみて、のんびり向かった。。。やはり、遠かった。 知床横断道路はまだ開通していないが、もう平地に残雪はない。到着はコンサート前日の夕刻、札幌で見るより大きく見える太陽が、これからオホーツクの海に沈もうという時間だ。夕日を全身に受けて輝いている斜里岳の美しさは、これまで目にした光景の中で最も印象的なものだった。今でも目を閉じると、夕焼け色に染まった斜里岳を見ることができる。 この町にはクラシック音楽が本当に好きな人は約60人しかいないという。それなのに、町は600名収容の「ゆめホール」を作ったのだ(小スペースは350名収容)。コンサート当日は釧路や美幌からいらして下さった方々もいて、60人をはるかに越えるお客さんで埋まった。 実は音楽ファンはもっといる、ということなのか。スタッフの努力の賜物だろうか。 町のいたる所に、次週行われる有名ピアニストのと私のポスターが貼られていた。まず、驚いたのはスタッフの熱心さである。とにかく箱さえあれば演奏会なんてできてしまうものなのに、いろんなアイディアをこらした演出が準備されていた。次に驚いたのはお客さんの熱心さである。演奏もお話も大変集中して聞いて下さっているのが伝わってきた。こんな素晴らしい空気で満たされた演奏会は滅多にない。終演後は、なんと札幌からいらしていた私の生徒さん4名とスタッフで、これまた大変洒落た「メンズクラブ」というお店で打ち上げをした。こんな別荘をこの地に持つことができたら、と夢のような事を考えてしまった。お世話になった方々に感謝。また、斜里町に行きたいな。 |
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